新田氏 挙兵のみち - わたらせからの風 近隣の山々
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新田氏は、源氏の嫡流であり源義国の子である義重が新田氏を名乗ることから始まります。一方、同じ子である義康は足利氏を名乗ります。

この両者の末代である新田義貞、足利尊氏が南北朝時代に敵味方に分かれて戦うことになります。

鎌倉時代末期、寛元4年(1246年)、後嵯峨天皇の退位後に天皇家は皇位継承を巡って、大覚寺統と持明院統に分裂します。
その後、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につくことになります。

元弘3年/正慶2年(1333年)、大覚寺統の後醍醐天皇は、全国の武士に討幕の綸旨を発します。
これに応えた足利高氏(当時)や新田義貞らの働きで鎌倉幕府は滅び、「建武の新政」と呼ばれる後醍醐天皇による親政がはじまります。

しかし、尊氏が新政から離反すると、不満を抱えた武士たちの多くが尊氏に従います。そこで後醍醐天皇は、新田義貞や北畠顕家に尊氏討伐を命じることになります。

新田義貞・楠木正成が湊川の戦いで敗れた後、尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を接収し、持明院統の光明天皇を京都に擁立(北朝)します。

そんな戦いの以前は、新田義貞は、北条氏にとり入り鎌倉に移り住んでいた足利氏と異なり、上野国の新田庄に屋敷を構え住んでいました。

今回は、新田義貞の住んでいた新田町を歩いてみます。
(取材日:2009.12/15 火)

新田町といえば、最近はホームセンターのジョイフル本田があり、いつも賑わっています。
その南に市の関係施設が集まっていますので、施設のいずれかの駐車場にクルマを停め、新田義貞ゆかりの地をめぐります。
今回は、水質検査センターの西の駐車場から、スタートです。


ジョイフル本田

クルマを停めた北側に広い敷地のジョイフル本田があります。







水質検査センターの前を通りまで出ます。









通りに出て、南に向かい、
10分ほど歩くと、ジョイフル本田の従業員用駐車場を通り過ぎた交差点に「史跡めぐりコース 反町館跡へ600m」案内板が建っていますが、さらに先に行きます。

水質検査センターとなりの駐車場

水質検査センター

奥の左側がジョイフル本田

史跡めぐりの案内板
矢止めの松の案内

矢止めの松

矢止めの松

交差点から、2、3分のところの畑の中に松の木と石碑が建っています。

新田義貞の矢止めの松です。
新田義貞は、元弘3年(1333年)後醍醐天皇の呼びかけで、この北2kmほどのところにある生品神社で挙兵します。
その折に一斉に南に向って吉凶を占う矢を放ちました。
そのときに義貞の矢がこの松に当たったといいます。

当時の松は、明治時代に枯れてしまったので、現在の松は、昭和になって植えられたものです。

この場所から、北の方角の1km以上離れた場所に、矢を放った生品神社があるのですが、到底こんな距離を飛んでくるはずはありません。
雄大な伝説でいいですね。

  旗挙げの 矢を受け止めし 老いの松

反町館跡(反町薬師)

さきほどの交差点まで戻り、案内板に従って、右折します。










5分ほどで左折の案内があり、目の前に濠が現れます。

ここは、新田義貞が住んでいた館跡です。
かつては、三重の塁壕に囲まれた平城でしたが、現在は、ほとんどその面影もなく、厄除け薬師の名で親しまれる照明寺の敷地となっています。









本堂の裏に室町時代の様式の「鳴かずの池」と呼ばれる庭園があります。
義貞が鎌倉攻めを思案しているときに、蛙の鳴き声がうるさいので一喝したところ泣き止んだという云い伝えがあります。







突然、鐘楼の鐘が鳴り響きました。10時を知らせているようです。
しかし、鐘楼にひとはいません。
よく見ると、なんと自動的に鳴らしているのです。

  
武士(もののふ)の 棲家といわれ 時遥か



反町館跡

反町薬師本堂

鳴かずの池

自動の鐘つき
反町館跡の濠に沿い北上

寄付の記念碑

宝蔵寺

宝蔵寺

反町館跡の東の道を北上します。






ジョイフル本田の前の前橋古河線を越えた場所に何やら大きな石碑が建っていました。説明を読むと、昭和5年の大恐慌で村民が困窮したときに村の有志が寄付金を出し合い、それを打開したと記されていました。









そして、その先に宝蔵寺があります。反町館跡から10分ほどです。

馬頭観音

宝蔵寺の右の道を北上します。

途中、黄色のゆずと紅葉のコントラストが綺麗な風景に出会いました。



またま大きな石碑。馬頭観音でした。

さらに歩くと、生品中学校につきあたりますので、回避するように右の道をゆきます。

ゆずと紅葉

馬頭観音
「高山彦九郎三女よりの墓」の標柱

高山彦九郎三女よりの墓?

先の鎮守の森を目指す

高山彦九郎三女よりの墓

墓地の一角に白い標柱が建っています。
「高山彦九郎三女よりの墓」と記されています。





その奥にある、古い墓石がそのようです。

歩いているからこそ、発見できるものですね。
ちょっと感激。






その先を左折して、生品神社へ向います。
こんもりした鎮守の森を目指します。

生品神社

足利尊氏討伐の呼びかけを受け、新田義貞は一族や関係する武士団に
檄を飛ばし、5月8日にこの地で挙兵します。
かつて、この地に数千の武士が集い、軍旗をはためかせ勝鬨をあげたのでしょう。
しかし、いまはそんな面影もなく、ひっそりと静まり返った神社です。










本殿の前に神代木という櫟の木があります。
挙兵のとき、大中黒(新田氏家紋)の旗をこの木に掲げ、戦勝を祈願したといいます。
しかし、明治37年に倒れてしまったのですが、シリコンで固めて保存しています。





境内には、「新田義貞挙兵の地」、「新田公挙兵六百年記念碑」、「新田義貞公挙兵六百五十年記念」等の石碑が乱立しています。
650年の石碑の揮毫は、内閣総理大臣 中曽根康弘でした。































その隣に小さな刀を捧げる義貞の銅像が建っていました。
以前、この地を訪れたときにはなかったような・・。
鎌倉の稲村ケ崎の海岸に太刀を奉納し、波を鎮めて、上陸した伝承の姿です。

  短日に 武士(もののふ)の鬨 神社杜

生品神社

剥げてしまっている本殿の彫刻



挙兵の石碑

新田公挙兵六百年記念碑



新田義貞公挙兵六百五十年記念 中曽根康弘

新田義貞銅像
雪の浅間山

赤城山

調整池

雪の山々

ここから、西に向かい歩くと、眼の前に真っ白に雪を冠った浅間山、右にうっすらと雪を冠った赤城山。





そこから、スタートの駐車場に戻ります。
駐車場の隣に調整池があり、湿地となっています。
あまり、綺麗な風景でありませんでした。ベンチもありましたが、佇んで見る風景ではない。





南北朝の時代に、平和な新田庄の日々から、一転戦さの日々を送ることになる新田義貞の生まれ育った地を巡ってみました。

彼は、生品神社で挙兵した後、ついぞこの地に戻ることなく、鎌倉、京都と転戦し、福井の灯明寺畷で亡くなります。

このコースは、古のひとの息吹があまり感じられませんでした。
管理人は、新田義貞には思い入れもあるのですが・・・

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