徳川氏 発祥のみち その2 - わたらせからの風 近隣の山々
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平安時代末期、八幡太郎義家の子義国の長子義重が新田氏の祖となります。
さらにその子義季(よしすえ)は、徳川の地を領し、徳川義季と名乗り、徳川氏を起こしました。

その後、承久3年(1221)、後鳥羽上皇の勅願で長楽寺を世良田に創建し、臨済宗の開祖栄西の高弟栄朝を招き、開山します。
さらに、徳川家康の時代にもこの地は徳川氏発祥の地として、厚い庇護を受けていました。

今回は、徳川氏発祥の尾島町を歩いてみます。また、新田氏ともつながりがあり、太平記関連の史跡も多く存在します。
(歩行距離:1.5km 取材日:2010.1/9 土)


前回の世良田東照宮、長楽寺を後にし、本格的なウォーキングを始めます。
徳川氏 発祥のみち
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総持寺

国道354号に出て、さらに西に10分ほど歩いたところに
総持寺があります。

ここは新田氏の総領の館の跡です。




素朴な藁葺きの鐘楼があり、開放感のある境内です。

総持寺

藁葺き屋根の鐘楼
二体地蔵塚

はるか雪の赤城山

二体地蔵塚

国道を東に戻り、世良田の交差点から、
北に向かい左折し、世良田JAのある道路を東進すると、まもなく小さな塚が見えてきます。二体地蔵塚です。
地蔵といっても蓮台に坐っています。温和な顔つきです。

鎌倉時代に当地の人々に重税が課せられ、それに怒った新田義貞が幕府の使者の首を切り、梟首にした地で、
塚は円墳です。



塚の背後から、雪を冠った赤城山が望めました。

 赤城背に 二体の地蔵 かなた見ゆ

明王院

塚の前の道を進み、露地から国道に戻り、東に15分ほど歩きます。
すると大きな上武道路の高架が見えてきます。










その下をくぐると尾島町の旧役場の三角形をした塔が北の方向に見えます。
いまは、太田市の尾島支所でしょうか。

その先に、左方向 明王院を示す案内があり、従い左折します。



すぐそこが明王院です。
ピラミッド型の石塔が眼につきます。
よくみると側面には、小さな不動明王が数多く刻まれています。
千体不動塔です。










その隣に本堂があり、新田触不動とも呼ばれています。
新田義貞が鎌倉攻めの際、不動明王が山伏の化身し、越後一帯の新田一族に触れ歩いた、と伝えられています。
朱い幟が参道に並び、参拝のひとはいないのですが、なんとなくひとの気配、活気を感じました。

その本堂の隣に、変わった二重塔のかたちの大師堂が建ちます。

 蒼空を 突いて聳える 千体塚

上武道路

尾島支所

千体不動塔

台石に『刻まれた不動明王

明王院本堂と大師堂
亀岡神社

須賀神社

哀愍寺

雷電神社

稲荷神社

神社のオンパレード

国道に戻り、またまた東に向かいます。

15分ほどで亀岡神社が左手に現れます。




続いて、須賀神社。









尾島の交差点を通り過ぎると、哀愍寺、雷電神社、稲荷神社。
神社のオンパレードですね。

青蓮寺

左手に三菱電機の群馬事業所を見て、10分ほどで、
左方向 青蓮寺の案内があります。





青蓮寺は、新田義貞の旗挙げにいち早く参じ岩松氏の館跡です。
岩松氏は、新田氏と足利氏の間に生まれ、微妙な関係にありました。





本堂内左手に日限地蔵尊が祀られており、地蔵尊前の柱に、お百度参りの、いまでいうカウンタが備え付けられていました。箱型の木枠内に板片が百枚はめ込まれており、1回お参りしたら、
板片を左右に動かして数えてゆく形で、回数を記録するものです。

境内の右手にトイレとあずまやが建っており、寒風の中、寒椿も咲いており、その陽だまりにひとり佇んでいたところ、参拝のクルマが一台訪れました。

 仁王門 風吹き抜けて 梢鳴く

三菱電機群馬製作所

青蓮寺

日限地蔵尊
尚純萩公園

岩松尚純j夫妻の墓

尚純連歌の碑

岩松尚純夫妻の墓

また国道に戻り、東に5分ほどの歩き、左折し、畑のなかの道を行きます。

植え込みのある場所が太田金山の第三代城主であった
岩松尚純(ひさずみ)夫妻の墓です。宝塔が三つ建っています。
いまは、尚純萩公園というミニ公園となっており、数台の駐車場も備えています。
もっとも筆者以外に歩いているひとも訪れているひともいませんが・・・
ベンチに座り、墓を見ていると、歴史のかなたに思いを馳せることもでき、なかなか心地よい公園です。

岩松尚純は、幼少の息子に家督譲り、この地に閑居し連歌に勤しんだといわれ、その妻秋吟尼とともに葬られています。

そばに連歌の碑も建てられていました。

  なでつくすそでか いわもとのあさがすみ
  奈天徒具寸袖可 岩本乃朝霞

  ほととぎすつきにいざ よふくもまかな
  郭公月耳以佐 与不雲間哉

  かぜまたでつゆに おられよはぎかはな
  風未多天露丹 於良連与萩可花

国道を西から東に向って歩いてきたのですが、ここが東端となります。
なかなか歩きでがありました。

 金山を はるかに望む 陽だまりの墓

さあ、ここから、西の尾島交差点まで、一気に25分歩き戻します。

尾島児童館

尾島の交差点まで戻り、右折し、尾島行政センター方向へ。
行政センターを過ぎると、左に尾島公園があり、その中に尾島児童館があります。




実は、筆者の前職での上司がいま館長を勤めています。
ひさしぶりの再会でした。1時間弱ほど歓談させていただきました。







館長就任当時に苦労して作ったというツリーハウスが眼につきます。
当時の情熱を感じることができました。

尾島公園

尾島児童館と館長

ツリーハウス
花見塚公園



勾当内侍墓と新田義貞首塚

勾当内侍の墓

児童館前の道を南下すること15分。
案内に従い、右折し、細い道を辿り、早川の土手が近づいてきます。
早川は、この先で利根川に合流します。

土手のすぐ下に塚があり、朱い鳥居が見えます。
新田義貞の妻である勾当内侍(こうとうのないし)の墓です。

勾当内侍の五輪塔の隣には、新田義貞の首塚があります。
彼女は、戦死した義貞の首を持ち帰り、ここに埋葬したということです。

ここは、花見塚公園と呼ばれており、近くに畑や人家があるのですが、適度な植え込み、木立があり、こちらも居心地がよさそうです。
かつて、この場所には、つつじが咲き乱れていたそうです。
そして、ここのつつじを移植したのが、館林のつつじヶ岡公園です。

 
 義貞の 時代の風吹く 花見塚

大舘氏館跡

また尾島児童館まで戻り、国道の南の道を西に向かいます。
上武道路も過ぎた、畑の中に朱い木枠の入り口が見えますので、そこを目指します。

小さな諏訪神社が建っており、大舘氏の館跡です。
義貞の旗挙げに集まった一族の筆頭が大舘宗氏親子でした。
残念ながら、宗氏は鎌倉で戦死してしまいます。
館跡は、この諏訪神社を中心の広がっていたようです。

大舘氏館跡
大和神社

大和神社

南側の畑の先に道路が見え、畔道を突っ切り、道路の先の神社へたどり着きます。そこは、なんと役の小角を祀った神社でした。

満徳寺

道路を西に10分ほど歩きます。

北側に畑が広がり、そのかなたに雪の赤城山、袈裟丸山連峰が見えました。








道路から、少し中にはいったところに満徳寺があります。
時宗の尼寺ですが、鎌倉の東慶寺と並んで、世界にふたつの縁切り寺です。

縁切り寺とは、いまのように簡単に離婚できなかった当時、この寺にはいることで離婚できました。そのために駆け込み寺とも呼ばれます。
満徳寺は、徳川家康の孫娘の千姫が入山したことにより、再婚が許されるようになりました。
しかし、明治5年に廃寺となったのですが、いまはそれを再現した本堂や伽藍と資料館が建っています。

しかし、縁切り寺を巡って数多の男女の物語があったでしょう。
そんなことに思いを馳せることができます。

 開館時間 午前9時〜午後5時
 休館日 毎週月曜日
 入館料 大人 200円、小中学生 無料

 整いて 居住まい悪し 縁切り寺


ここから、歴史公園に戻ります。
しかし、北からの寒風を受け、左に真っ白な浅間山、眼の前に赤城山を見ながら、今回のもっとも長丁場の歩きでした。
30分くらいだったでしょうか。

今回、徳川氏、新田氏ゆかりの尾島町を歩きました。
他の足利氏、新田氏のように軽い気持ちで歩き始めたのですが、18kmという距離でした。
このコースは、それなりの準備をして歩いてください。

しかし、北からの寒風とともに歴史の風を感じることができる、よいコースだと思いました。

赤城山

袈裟丸山連峰

満徳寺

満徳寺資料館

浅間山
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