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日光例幣使街道 その7 文挟〜日光 地図へ |
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日光例幣使街道を歩く!シリーズ最終回(第7回)は、文挟(ふばさみ)宿から日光 鉢石宿、神橋までをご紹介します。 歩行距離 17km。歩行時間 5時間15分(休憩含む)。(取材日 2009.3/19 金)。 足利の自宅から、クルマで、勝手知ったる国道122号を走り、日光にクルマをおき、東武日光線で前回のゴール下小代駅まで戻り、スタートです。 |
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杉並木 |
ヨックモック工場 |
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石積の跡地 |
車道へ |
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三本石、十九夜塔、板橋の一里塚 |
日光まで16km 板橋宿には、「日光まで16km」の標識がありました。 もう少しです。 |
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福生寺 道が左にカーブする辻に福生寺という寺があります。 境内に、本多正盛の墓というのがありました。 案内によると、東照宮造営にあたり、副奉行の職にあったが、41歳のときに自刃した人なのだそうです。 |
また杉並木の中へ 再び杉並木の中へはいってゆきます。 実は、ここから、遊歩道が踏み跡程度となり、藪も茂っており、難渋する道となりました。 歩き始めて、1時間経ち、そろそろペースができてくる時間帯だったのですが、平地歩きモードから、山歩きモードへ切り替えて、全開全速力です。 左手には、美しい樹林帯を眺める余裕もなく・・・ |
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地震坂 反対側 車道の右手に「地震坂」と書かれた案内があります。 昭和24年に起きた地震で、杉並木が移動した坂です。 本来の杉並木は、この上にあったということです。 |
まだまだ山歩きモード 踏み跡レベルの藪の道を進みます。 ときどき嫌になり、車道を選んだりしますが、すると、狭い車道でクルマに怯えながら歩くことになり、こちらもタイヘンです。 |
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十石坂 ここは一部、一方通行となり、日光方面へ向うには、 大きく左にカーブします。 眼の前に、ガラス張りの高層ビルが見えます。 新しい造りなのですが、所々ガラスが割れています。 いったい何のビルだったのでしょう。廃墟のようすです。 |
宇都宮日光道路 宇都宮日光道路の下をくぐります。 クルマの音しかわからないのですが、平日でもあり、通行量は少なそうでした。 |
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室瀬の一里塚 このあたりには、いくつか一里塚が残っています。 室瀬の一里塚です。 |
杉の根 1並木の車道部分にも、杉の根が大きく張って、車道へもはみ出しています。 |
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JR日光線踏切 JR日光線の小さな踏切を渡ります。 |
今市のまちなかへ ようやく今市のまちなかへ入ってゆきます。 赤堀通り、と書かれた案内板と小公園がありました。 ようやく山歩きモードから、開放されることに、ホッとする管理人です。 |
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追分 ようやく、日光街道が左手から、合流する追分です。 やっと、ここまで来たという実感です。 いま、11時45分です。 ここには、追分地蔵尊があります。 社務所もあり、お守りなどを販売していました。 杉並木の左側に「追分の変わり杉」です。 ![]() |
今市宿 今市も駅に向う道のあたりは、広いまちなみになっています。 しかし、それ以外は、狭い大通りです。 思いのほか、人通りもあります。 |
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報徳二宮神社 今市というと、あの二宮尊徳の終焉の地です。 例幣使街道から、少し北に入ったところですが、寄り道して、報徳二宮神社へ行ってみました。 嘉永6年(1853)から、二宮尊徳は、日光神領98ヶ村の復興に努めたのですが、安政3年(1856)10月、志半ばにして報徳役所で70歳で亡くなりました。 ここは、彼の遺徳を偲ぶ人たちによって建てられた神社です。 二宮尊徳翁遺訓 「人生れて学ばざれば生れざると同じ 学んで道を知らざれば学ばざると同じ 知って行うこと能はざれば知らざると同じ 故に人たるもの必ず学ばざるべからず 学をなすもの必ず道を知らざるべからず 道を知るもの必ず行なはざるべからず」 かつて小学校の校庭には、薪を背負って読書しながら歩く像が必ずありましたが・・・ |
如来寺 すぐ近くにある如来寺へ向います。 ここは、寛永9年(1632)、3代将軍家光が東照宮造営のために如来殿を建築し、逗留した場所です。 風格のある本堂です。地方の寺とは思えない大きさでした。 ここから、国道に戻り、例幣使街道歩きを続けます。 |
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今市宿市縁ひろば 広い駐車場があり、その奥に観光案内所とそば屋さんがあります。 平日のためか、クルマも人気もない。 展示スペースもあり、雪割草を展示していたようです。 天気もよく、20℃を超す陽気となり、ザックの背中も汗がにじんでいます。 |
滝尾神社 滝尾神社は、日光を開山した勝道上人が、日光の滝尾とともに、この地に滝尾神社を祀りました。 風変わりなのは、風車に願いを書いて、奉ります。 色によって、願いの内容が異なります。 黄色は、金運・商売繁盛・合格 赤色は、厄除け・健康長寿 桃色は、方位よけ・縁結び |
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杉並木公園 神社の道路向かいが、杉並木公園です。 今市そばまつりの会場となる公園です。 杉並木は、車道と分かれ、きちんと整備された遊歩道があり、その東となりに杉並木と寄り添うように公園があります。 |
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水車群 まず最初に2連の水車。 世界の水車、日本の水車等々。 そして最後に大きな、著尾系10mの水車があります。 今市は、水が豊富な感じがします。 それで、そばが有名ということになるのかもしれませんが、まちなかに縦横無人に水路があります。 この先の杉並木の遊歩道の脇でも音をたてて流れています。 |
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今市用水円筒分水井 それらの水路の源が円筒分水井です。 発電所で使われた水を直径1.65m、延長1004mのヒューム管製のサイホンで大谷川の地下を横断し、ここまで送水しています。 |
報徳庵(報徳仕法農家) 分水井のとなりは、二宮尊徳が考え出した報徳仕法による住宅である報徳仕法農家を復元・利用した報徳庵というそば屋になっています。 報徳仕法とは、厳密に現地調査を行なったうえで、各自にふさわしい生活の支出の限度を決め(分度)、余剰分は将来にそなえ貯えるか他人に譲る(推譲)ということです。 囲炉裏のある居間から上がり、座敷で昼食です。 |
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旧江連家 さらに、そのとなりには、天保元年(1830)に建てられた旧江連家が復元されています。 大きな茅葺屋根と3重に並んだ座敷があります。 |
瀬川の一里塚 公園を出て、遊歩道を少し戻ったところに瀬川の一里塚があります。 日本橋から、34里の地点にある、日光街道最後の一里塚となります。 ここから先、小一時間ほどは、整備された遊歩道歩きです。 杉並木が途切れる部分もきれいに整備されています。 |
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瀬川の大日堂 民家の塀沿いに入ってゆくと、大日堂。 遊歩道の脇を水路があり、水が清らかな流れと音をたてて流れてゆきます。 |
杉オーナー制度 このあたりに立ち並ぶ、太い杉には、名札が取り付けられています。 最近、杉のオーナー制度が取り入れられたという記事もあり、そのオーナーの名前の札が付いています。 それらを見ながら歩いてゆきます。 東芝、NTTといった企業や栃木県、河内町といった行政機関のほかに個人の名前、夫婦が多いでしょうか、の名札が取り付けられています。 |
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砲弾打込杉 何やら、すごい名前の杉です。 幕末の戊辰戦争のときに官軍の砲弾があたり、その痕がくぼみとして残っている杉です。 この先に幕府軍陣地跡があるとのことでしたが、発見できませんでした。 |
薬師堂 遊歩道を歩き始めて、30分。 石造りの梵鐘が置かれている、お堂があります。薬師堂です。 明和5年(1768)に村人が石で作った梵鐘を奉納しようとしたのですが、その重さのため、吊り下げるための龍頭が壊れてしまい、以来そのまま、境内に置かれたままという謂れのものです。 |
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国道へ 遊歩道を歩き始めて、45分。国道へ合流です。 |
並木太郎 国道へ出て、5分。 杉並木でもっとも大きな杉である並木太郎です。 周囲5.35m、樹高38m。さすがに堂々たる姿・・・ |
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銀杏杉 根元がいちょうの葉を逆さにしたような姿をしていることから、そう命名された銀杏杉。 |
明治天皇小休所 明治9年(1876)、明治天皇が東北巡幸の際、日光を訪れ、中禅寺湖まで足を伸ばし、その往復のときに休憩所となった場所です。 当時の日光の道は至るところに石段があるので、ここまでは馬車で訪れ、ここからは馬に乗り換えたそうです。 門構えのある家ですが、荒れ果てています。 |
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筋違(すじかい)橋の地蔵堂 志渡渕川を渡る筋違橋のたもとに小さなお堂があり、地蔵様が祀られています。 これは、はしか地蔵と呼ばれ、はしかにかかったとき、この橋の下をくぐると治るそうです。 |
異人石 ここから、杉並木は、再び遊歩道となり、 人家の前に異人石と呼ばれる椅子の形状に削られた石があります。 明治のころ、ここを訪れた外国人がここに座って、毎日杉並木を眺めていたそうです。 管理人も座ってみます。 眼の前に杉並木、その向こうに東武日光線の線路です。 駅も近づき、JR日光線、東武日光線の線路も左右に近づいてきています。 |
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JR日光線 JR日光線の高架をくぐって、さあ日光のまちなかです。 |
最後の杉並木 遊歩道も、あと少しを残すばかり、 その先に日光のまちなみが見えます。 杉並木公園から、1時間30分です。 |
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JR日光駅 まちにはいると、右手にJR日光駅。 かつては、日光の玄関として栄えたこともあったのでしょう。 そんな風情のJRの駅です。ちょっと淋しいでしょうか。 |
東武日光駅 つづいて、東武日光駅。 こちらは、駅前も整備され、人通りも多く、クルマ社会になって、電車を使わなくなったといわれますが、少しはかつての賑わいをとりもどしつつあるように感じました。 北に女峰山が雪を冠り、美しい姿を見せています。 駅に降りたち、北に日光の山々を眼にする、というのが、日光を訪れたときの第一印象なのでは・・・ こういう場面に会うことが、旅の楽しみ、醍醐味なのでしょうが、クルマを使ってしまうと、それが薄い印象でしかなくなってしまいます。 |
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観光案内センター 左手に観光案内センターを見ながら、 緩やかな上り坂になったまちを歩いてゆきます。 歩きの最後の上りは、ちょっとつらかった! |
日光市役所 さらに日光市役所も見えてきて、 ゴールは、目前! |
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天海上人像 ゴールの神橋前の交差点の小さな公園に天海上人の像が建っています。 天海上人は、徳川家康の命を受け、東照宮の復興に尽くした僧です。 東照宮を日光に遷したのは、天海の力によるとも云われます。 |
板垣退助像 道路の反対側の日光金谷ホテルの入り口には、幕末の官軍の板垣退助の像が建っています。 官軍の総督であった板垣退助は、幕府軍の大鳥圭介と話し合い、日光を戊辰戦争の戦火から守りました。 その功績をたたえ、像が建っています。 |
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日光杉並木寄進碑 杉並木の入り口にあった杉並木寄進碑が交差点の向こう、 日光の社寺を背に建っています。 |
神橋 そして、遂にゴールの神橋。 ようやく、7回の挑戦で到達しました。 いま14時45分。 神橋は、この橋から日光山内を示す橋です。 日光を開山した勝道上人が川に突き当たり、渡れなかったとき、神仏に祈りました。 すると、深妙大王が現われ、赤い蛇と青い蛇を橋に変えて、渡してくれたという云い伝えがあります。 先日まで大修理が行われていました。 下の写真は、駐車場から赤薙山の展望です。 ということで、日光例幣使街道を歩く!シリーズも完結です。 足かけ5ヶ月にわたってしまいました。 昨年11月に歩き始めて、いまは3月。いささか長かった。 日光例幣使街道(倉賀野〜楡木):92.2km 日光壬生道(楡木〜今市):26km 日光街道(今市〜日光鉢石):7.9km 以上、踏破総距離数:126.1kmでした。 当時の例幣使は、 この距離を4月11日から15日までの5日間で歩きました。 管理人は、7日を費やして歩いたことになります。 次回(今年)は、もう少し短時間で歩けるコースを考えたいと思います。 |
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