梁田戦争戦跡を歩く - わたらせからの風 足利近辺の山々
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梁田戦争戦跡を歩く(付 宇都宮戦争戦跡を歩く) 地図へ

マップ 梁田

幕末に幕軍と官軍が戦った戊辰戦争は、京都から会津、函館へと戦地が北上します。
日光例幣使街道の宿場でもあった足利市の渡良瀬川の南に位置する梁田宿でも、戦いがありました。それが戊辰戦争の東日本最初の戦いでした。

慶応4年(1868)3月9日早朝、上渋垂方向から進んできた官軍約200名は、幕軍約900名に攻撃をしかけます。梁田小学校の南の供養塚に大垣藩の火箭砲を設置し、例幣使街道の薩摩藩、南からの長州藩が梁田宿の古屋佐久左衛門率いる幕軍を午前7時に総攻撃します。

幕軍第一大隊の今井信郎の前軍は宿の西口へ、第二大隊の内田荘次の後軍は北口へ向かい、四斤砲で抗戦します。しかし、渡良瀬川の土手沿いに進んできた薩摩藩に背後から襲われ、午前10時に幕軍が退却し、戦いは終わります。

幕末の画家であった田崎早雲も農兵隊である誠心隊を組織し、梁田宿に出陣していました。田崎早雲の旧居は、足利公園内に残り、美術館もあります。

また、司馬遼太郎は、短編「喧嘩早雲」でこの田崎早雲をとりあげています。
  >> 「わたらせメデイア紀行 足利」は、こちらから。

この後、会津戦争、函館戦争と戦火は拡がり、明治維新を迎えることになります。 渡良瀬川南岸の梁田公民館にクルマを置かせていただき、スタートです。 (取材日:2012.6/14 木)

2012.10/3 「宇都宮戦争戦跡を歩く」を追加。
(取材日:2012.10/2 火、2017.4/17 月、2017.5/30 火) New


梁田公民館(弾痕の松)

梁田公民館内の展示室には、梁田戦争の資料が展示されています。まずここを見学してから、歩き出しましょう。
また、配布されている「梁田地区歴史マップ」を入手できます。




館内の一角に、戦時の各軍の配置図や弾痕を受けた柱・階段の部分が展示されています。








公民館の駐車場の南に、
太平洋戦争の戦没者慰霊の招魂社が祀られています。

そして、その隣に、梁田戦争で砲弾があたり、
穴のあいた黒松があります。
ちょうど幹が曲がった部分に砲弾がめりこんだのですが、
現在はコンクリートが詰められています。

 弾痕も 世紀を越えて 松黒く

弾痕の柱

弾痕の階段

招魂社

弾痕の松

幕軍の墓

自性寺(幕軍之墓)

梁田公民館の前の道を南に歩き、
交差点から南に延びる道をゆきます。

10分ほどで右手に寺が見えてきます。自性寺です。
石の門柱の右わきに「戊辰戦役幕軍之墓」が立っています。
ここは、下渋垂町内で、幕軍に2名の戦死者があった記録が残されています。

 戦死墓 地蔵へ重なる 夏の影

崇聖寺(柳田勝太郎之墓)

先の交差点まで戻り、東進します。
この道は、日光例幣使街道。かつて筆者も歩きました。
 >> 「日光例幣使街道を歩く」は、こちらから。

梁田宿への曲がり角を通り過ぎると、
右手の畑の中に墓地が見えてきます。
そこに幕軍の衝鉾隊軍鑑であった会津藩士の柳田勝太郎の墓が
あります。彼は、数発の弾丸を受け、自刃したと伝えられます。
この寺に身体を、会津に首を埋葬しました。

無住の寺に大きな石碑が寂しく立っています。

 梁田宿 会津ははるか 風の墓

柳田勝太郎之墓
梁田宿

梁田宿

歩いてきた道路を戻り、土手に向かう道を右折します。
ここが梁田宿です。

土手に向かって、道がまっすぐに向かっているのですが、
日光例幣使街道は、この先の渡良瀬川に渡しがあり、
北岸に移ります。

いまは渡しもなく、
少し下流にかかっている川崎橋で川を渡ります。

  渡良瀬の 土手の緑へ 梁田宿
 

長福寺(東軍戦死者追弔碑、戦死塚)

下宿場の途中の梁田自治会館の脇に、
最近、日光例幣使街道の石碑が建てられていました。









この路地の先に長福寺があります。








山門を入ると、右手に、
あじさいを背景に小さな観音菩薩がずらっと並んでいます。
そして、各々に紀伊三井寺、清水寺等、と刻まれています。
西国三十三番札所を並べており、
ここをお参りすると、三十三寺をお参りしたことになります。

  紫陽花の青 菩薩の白 長福寺



左の木のそばの石碑は、東軍戦死者追弔碑です。
幕軍の隊長だった内田荘次の二男萬次郎、当時15歳も参戦し、
彼は、明治期には大蔵省に勤めました。
その退職金でこの石碑を建てたということです。








本堂の前には、梁田め薬師の祠があります。
中を覗くと、立派な薬師如来と十二神将が祀られています。
しかし、12数えられず、10神将?。



















そして墓地の中に、小高い部分に戦死塚が建ちます。
梁田戦争直後、村の人々は、
幕軍兵士の遺体を渡良瀬川に埋葬しました。
明治維新直後は、幕軍の墓を造るのは困難な時代でした。
従って、全国的にも幕軍の墓や追悼碑は少ない。
その後、川の洪水で遺骨が流されるのを危惧し、
土手の内側の星宮神社へと移し、
結局、この長福寺に移設されます。
石碑の裏には、「戦死六十四人・・・」と刻まれています。
当時の情勢の中、
幕軍戦死者を弔った梁田村の村民の勇気に敬服です。

  古への 村人の想い如何に 戦死塚夏

日光例幣使街道石碑

長福寺

西国三十三番札所

東軍戦死者追弔碑

梁田め薬師

「め」の絵馬

祀られている薬師如来

戦死塚

星宮神社

本殿

うなぎ

星宮神社

渡良瀬川の土手にあがる手前の道を左折すると、
星宮神社があります。

幕軍戦死者の遺体を河原から移設した場所です。
社殿の裏手あたりに戦死塚があったようですが、
いまはその名残は見つけられませんでした。


足利市文化財一斉公開のほか、祭礼の午後に内部の本殿が公開されます。たまたま立ち寄って拝見しました。(2017.4/17) New


本殿は、日光東照宮を手がけた彫り物大工の流れを汲むひとが彫刻・彩色したそうです。













もともと虚空蔵信仰に由来しているそうです。
従って社殿にうなぎの彫刻。

渡良瀬川

梁田宿に戻り、渡良瀬川の土手にあがり、
幕軍、官軍の兵士たちも見たであろう渡良瀬川を筆者も眺め、
今回の梁田戦争戦跡を巡る歩きも終りです。

戊辰戦争の東日本最初の戦いの舞台となった梁田。
わずかですが、往時のようすを伝える史跡も残っています。
当時の人々が幕軍に好意的であったようすがうかがえ、
江戸時代は、平和な時代で、庶民は新しい時代を待ち望んで
いたのではなさそうです。
あくまでの薩長土肥の藩士たちの積年の恨みつらみと
海外からの圧力、そういったものが絡み合い、
明治維新を迎えます。




梁田宿から渡良瀬川土手

   
マップ宇都宮戦争 2012.10/3 追加
宇都宮戦争戦跡(六道の辻)を歩く

慶応4年(1868)3月9日の梁田戦争の後、
元号が変わった明治元年(1868)4月19日に、
大鳥圭介率いる幕軍が、新政府側についた宇都宮城を攻撃します。
土方歳三率いる桑名藩も宇都宮城の下河原門に攻め寄り、
宇都宮城は、わずか1日で落城しました。

4月23日、官軍は援軍を加え、
宇都宮城の奪還に向け総攻撃をかけます。
城下の入口にあたる六道の辻で、
宇都宮最大の攻防戦が行われました。

土方歳三も足に被弾負傷し、
彼の離脱した旧幕府軍は、統率力を失い、
宇都宮城は、官軍に奪還されてしまいます。

その攻防の舞台である六道の辻近辺を歩いてみました。
(取材日 2012.10/2 火)

東武宇都宮駅から、西の方向に六道の辻はあり、歩いて向います。
   
一向寺

駅から20分ほどの家込みの中に一向寺があります。
国の重要文化財となっている汗かき阿弥陀が祀られています。
拝観するには予約が必要らしく、
今回は寺の外観のみ覗いてみました。
一向寺
   

報恩寺

萱葺の山門と十月桜

花御堂

吾唯知足の池

紅い水連

戊辰薩藩戦死者墓

戦死烈士之墓

報恩寺

一向寺の隣り、塀に囲まれ、
十月桜が咲く先に茅葺の山門のある趣のある佇まいの寺が
報恩寺です。













境内には、花御堂と呼ばれる、
屋根が大きく張り出した、小さなお堂があります。







また、本堂の前に、「吾唯知足」と刻まれた石のある
円い池があり、紅い水連が咲いていました。

















ここには、薩摩藩戦死者之墓と戦死烈士之墓(長州、薩摩)、
いずれも官軍の墓が立てられています。
そばの六道の辻での戦いで亡くなった官軍兵は、
この寺に葬られました。
   
六道の辻

六道とは、
鹿沼、壬生等から宇都宮への6つの街道が交わる場所であり、
その名前がつけられています。
確かに複雑な交差点となっています。
六道の辻
   
戊辰之役戦死墓

戊辰之役戦死墓

この戦いで亡くなった官軍兵は、先の報恩寺に葬られましたが、
幕軍兵はその場に打ち捨てられたままだったのを
土地の人が埋葬したものです。

その後、明治7年に宇都宮藩士と付近の住民によって墓碑が
建立されたそうです。
当時の幕軍戦死者の扱いは、どこも同じ様相ですね。

   
閻魔堂

交差点の向いの広場の奥に小さなお堂が建っています。
この先にある光琳寺の上人が建てた閻魔堂です。





その脇に石仏があるのですが、変わったかたちでした。
足元には、朱い彼岸花が咲いていました。

閻魔堂

石仏と彼岸花

   

光琳寺

光琳寺参道

戊辰の役官軍因幡藩士・山国隊士の墓

討つ人も討たるる人ももろともに同じ御国の為と思えば

戊辰の役幕府軍桑名藩士之墓

光琳寺

細い石畳の参道を行き、
樹木に囲まれた山門の先の右側 立派な石鳥居の奥に、
戊辰の役官軍因幡藩士・山国隊士の墓があります。






















その左下の黒御影石に刻まれた言葉が胸を打ちます。

 
討つ人も 討たるる人も もろともに
             同じ御国の 為と思えば






そして左側には、戊辰の役幕府軍桑名藩士之墓が
ひっそりと立っています。
官軍と幕軍の墓が向かい合って立っています。

戊辰戦争の舞台は、
京、江戸から足利、宇都宮と北上し、
この後、最大の激戦地となる会津へと向かってゆきます。
   
2017.10/30 追加 New

宇都宮へ向かう栃木街道の淀橋南交差点の南に、
戊辰戦争の石碑があります。
以前は道路の路肩にひっそりと建っていました。

慶応4年、宇都宮にいた幕軍と壬生から北上する官軍が、
この安塚で戦っています。
4月21日夜半から4時間。豪雨と深い霧の中で行なわれたと云います。
 
戊辰戦争 安塚の戦い石碑

石碑は、戦死した幕軍34名を祀るために、
明治元年(左)、明治13年(右)に建立されました。
ふたつが並んで建っていますが、
左の明治元年の石碑は、ボロボロです。
安塚の戦い石碑
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