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銅街道を歩く 世良田〜平塚河岸 地図へ

マップ 銅街道 世良田〜平塚河岸
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足尾銅山で採掘された銅は、渡良瀬川に沿い大間々まで下ってゆき、
大間々から世良田の南 利根川の平塚河岸から船で運ばれました。
この街道は、「銅(あかがね)街道」、「足尾銅山街道」と呼ばれます。
当時は、足尾から平塚河岸まで、3泊4日でした。

今回は、世良田から平塚河岸までを歩きました。
距離 6.7km、所要時間 2.00時間(取材日:2012.2/9 木)

今回は、前回までの交通手段の電車でなく、
尾島の歴史公園までクルマで行き、歩き出すこととしました。

       【銅街道スケッチ3】
今回のウォークでは、総持寺、長楽寺、世良田東照宮等、見所もたくさんあるのですが、筆者にとっては、なんといっても思いがけず八甲田山の福島大尉の墓を参ることができたことです。
筆者は、学生時代から、山の小説に親しんできました。
当時山岳小説といえば、第一人者であった作家の新田次郎。
彼の小説は、くまなく読んできました。
気象庁の測器課長であった折に富士山レーダーを建てた体験をもとにした「富士山頂」、先の福島大尉の登場する八甲田山の雪中行軍を題材にした「八甲田山 死の彷徨」・・・。
そして、山岳3部作である、「孤高の人」、「栄光の岩壁」、「銀嶺の人」。今年の2月に「栄光の岩壁」の主人公のモデルである芳野満彦が亡くなりました。合掌。
筆者のベストは、単独行の加藤文太郎を主人公に描いた「孤高の人」です。自身の生き方にも影響を受けたし、反映したように思います。 ひさしぶりに新田次郎を紐といてみようかと思います。


世良田 八坂神社

東武伊勢崎線の世良田駅から南に向かい、
鎮守の森らしき場所へ向かって右折すると、
路地の先に八坂神社です。
新田氏代々が崇敬したと伝えられ、
織田信長も社殿を修復したとか・・


境内の隅の木立の陰に丸い自然石の松尾芭蕉の句碑を見つけました。「しばらくは 花の色なる 月夜かな」

 立春の 芭蕉の句碑は 陰白し




八坂神社といえば祇園祭。
ということで神社の前に世良田祇園の屋台車庫が3つ。

八坂神社

芭蕉句碑

世良田祇園屋台車庫

 

清泉寺

宝筺印塔

悪源太義平の墓

清泉寺

南に向かい、突き当たった道路を右折すると、清泉寺です。
上州特有の殺風景な趣きの寺です。
それもそのはず、無住の寺です。
しかし、入り口には、
しっかりと案内板(悪源太義平の墓 入口)が立っています。

悪源太義平といわれる源義平は、源義朝の長男で鎌倉幕府を開いた頼朝の兄です。平治の乱で義朝とともに平清盛と戦いますが、義朝は討たれ、義平も捕らえらえ、京の六条河原で斬首となっています。新田義重の娘である、義平の妻は、京から義平の首を持ち帰り、この地に庵を結び、夫の菩提を弔いました。

朽ちつつある寺の狭い境内の左に徳川吉宗の二男宗武の建てた宝篋印塔がありますが、その後ろに悪源太義平の墓は、ひっそりとあります。訪れるひともいないのでしょうね。

 無住なる 義平の墓 霜の立つ

総持寺

国道354号の道路へ出て、西へ行くと、
新田氏の祖である義重の館跡である総持寺です。

ここからは、
以前「坂東武者の足跡を歩く 徳川氏 発祥のみち その1」で紹介しています。

総持寺

   

東毛歴史資料館

世良田東照宮

長楽寺

歴史公園

公園の中に
東毛歴史公園、世良田東照宮長楽寺がひしめいています。
殆どひとの姿を見ないのですが、
もっとたくさんのひとに訪れてほしいものです。


 静寂(しじま)なる 東照宮に 風が落つ

世良田氏館跡

公園の西側は、広い芝生の広場になっており、
世良田氏の館跡といわれています。

芝生の中に空堀が再現されています。
銅街道は、上武国道からは、県道69号でなく、
西側のこのあたりを通っていたようです。

世良田氏館跡

薬師公園

薬師公園

歴史公園の駐車場のある道を西へ歩き、
公園を南に曲がります。

薬師公園と呼ばれ、
入り口に「物見の松とあかがね街道」と書かれた案内板が立っています。
ようやく銅街道に関わる史跡がでてきました。
かつて、銅街道の道沿いの早川の橋のたもとに薬師堂があり、
そばに松の木があったそうです。
新田義貞が鎌倉攻めのときにこの木に登り、
敵情視察をしたことから、その名がつきました。
案内板の下の、
刳り貫かれた石の中に小さな阿弥陀様が祀られています。珍しいかたちです。その隣に松の木が。

足尾銅山街道の案内板

さらに南の早川に向かうと、
足尾銅山街道の案内板が立っています。





小さな川である早川を渡ると、
畑が広がる中の道となります。農道です。
クルマも当然通らない。
寂れたよい趣きです。
でも、これが銅街道なんですね。

 銅のみち 埃り舞う畑 みち突き抜ける

早川へ

畑の中の銅街道

彼方に赤城神社

赤城神社

社殿の彫刻

道標?

赤城神社

広がる畑の中の道の先に木立に囲まれた神社があります。






赤城神社です。









社殿は、現代の建築物に覆われていますが、
隙間から覗くと、彫刻が見事です。








鳥居の左に道標らしき石柱が並んでいました。

西光寺

さらに道の先には、利根川の土手と寺、多くの墓が見えます。
右側が西光寺、左側が天人寺。
ふたつの寺が道路を挟んで並んでいます。
道路といっても、路地といっったほうがよい道です。
墓は、すべて左の天人寺側にあります。


西光寺の門の中にはいると、
境内の左に馬頭観音等が並んでいます。

西光寺

馬頭観音等

天人寺

本堂

庚申塔等

福島大尉の墓

天人寺

反対側が天人寺です。
















立派な本堂の左に庚申塔、道祖神等が並んでいます。







そして、驚いたことに、この寺には、あの八甲田山の雪中行軍で有名な福島泰蔵大尉の墓があります。
明治35年、彼の率いる弘前歩兵第31連隊37名は、吹雪と極寒の八甲田山を11日間で踏破しました。一方、青森歩兵第5連隊は、遭難してしまった事件です。
後年、新田次郎の「八甲田山 死の彷徨」で有名になった事件です。
映画化もされ、福島大尉の役は、高倉健でした。
彼は、その後、日露戦争で戦死し、平塚の船問屋に生まれた彼の故郷でもある利根川河畔のこの地に眠っています。
土手に上がる道路の下、積み重なる自然石の上に顕彰碑と左に墓標が立っています。

 雪山の 功を懐に 春の土手

平塚河岸

土手に上がれば、
眼の前に広瀬川、その先に利根川が流れます。
ここ平塚河岸が今回のロングウォークのゴールです。
東にかかる坂東大橋から、広瀬川の合流点の区間が平塚河岸を呼ばれ、江戸時代の銅街道の終点でした。
平塚河岸は、江戸時代、元禄年間まで、江戸へ積み出す河岸として栄えましたが、以降積み出しが下流の前島河岸に変更されました。そのため、平塚河岸からは、銅に代わり上州各地からの薪や炭、木材、穀類、醤油、酒などに変わり、江戸からの帰り船では、塩や糠、藍玉、海産物、茶、綿などを運んで来ました。
また、幕末には、生糸もこの河岸から積み出されていました。
平塚河岸は、天明3年の浅間山の大噴火によって、水深が浅くなった利根川の平塚より下流へ運ぶ荷物の元船から小舟へ積み換える基地として重要な役割を果たしました。
その後、明治17年(1884)、上野・高崎間の鉄道が開通すると、平塚河岸は急速に衰えてゆきました。さらに大正8年(1919)の河川改修により、平塚河岸は完全に姿を消します。

 風止まぬ 坂東太郎の 合流点

この日は、風が強く、寒く、なかなかつらい日でした。
しかし、見所も多く、充実した歩きが楽しめました。

土手からの景色

広瀬、利根川

坂東大橋

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