太田駅
11月も下旬、そろそろ冬支度の街です。通勤通学客の混雑の中、新しくなった太田駅北口を8時30分に出発です。
駅前も広くなったのですが、
昔のこじんまりしていたほうが親しみが湧きます。
駅北口の正面に、従者を従えた新田義貞の像が建っていました。
義貞のまなざしは、鎌倉です。
以前からあったようなのですが、
駅前の工事に伴い現在の場所に移設したようです。
他には、京王線の分倍河原駅前に新田義貞の騎馬姿の像があります。
駅前の通りを富士重工の本社工場の前を通り、東に向かいます。
いつもながらのロングウォ−クでは、
西から東に向かって歩くので、朝陽がまぶしい。 |



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追分の道しるべ、追分地蔵
駅から10分ほど歩くと、
道の左側(北側)に西を向いて建つ覆屋の中に道しるべと地蔵様が祀られています。追分地蔵です。
右隣に道標
「右 たてはやし こか道(館林古河道) 左 日光道さの」
が立っており、
この先で日光例幣使街道と古河往還の分岐となります。
以前の「日光例幣使街道を歩く」では、左に行きましたが、
今回は右にまっすぐです。 |
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天神山古墳、女体山古墳
さらに数分でふたつの古墳が
道の左右にこんもりと盛り上がっています。
最初に右側にあるのが、天神山古墳(別名 男体山古墳)。
古墳時代中期から後期に造られたもので、
東日本最大の前方後円墳です。
その先の左側にあるのが女体山古墳。
こちらは、天神山古墳よりも先に造られた帆立貝形古墳です。 |


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県道2号線
歩いている県道2号線は、東国文化歴史街道と呼ばれます。
しばらくして、内ヶ島の交差点を過ぎると、
左に折れた道路の先に
ぐんま国際アカデミー中等部・高等部が見えてきます。
かつて、SMAPのキムタクの子供が通っていたという話もありましが・・・
さらに10分。
今度は、パナソニック(元三洋電機)のラグビー練習施設があります。三洋電機の施設もすっかりパナソニックに変わっています。 |
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賀茂神社
龍舞に入ると、
北に延びる道路の先に賀茂神社の一の鳥居があります。
社殿前の鳥居の手前の左の小さな社は、権現様と呼ばれます。
こちらは、熊野権現に、さらに赤城大明神を合祀しています。
足の患いに霊験あり。
賀茂神社は、貞観3年(861)に藤原長良が京都から勧請し建立したと伝わります。永い年月で色は褪せているが、なかなか立派な社です。あまり人が訪れている雰囲気ではありません。
当時上野の国司であった藤原長良は、賊徒に対し、利根川の前の備えとして、青龍、白虎、朱雀、玄武の神旗を龍舞の地を中心に四方に建て、青龍の旗が龍の形となり、雲に昇り、雷をお越し、敵陣を襲って平定しました。これが地名の起こりですね。
春には、江戸天保年間から行われるようになったという萬燈祭が行われます。
境内の右の盛り土の上には、
小さな浅間神社もあり、この地の富士信仰も窺えます。 |




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龍舞十字路
筆者が数十年にわたり、
通勤時に通っていた龍舞十字路を過ぎると、
左手が一面の畑になり、北の展望が開け、
赤城山、袈裟丸山、そして桐生、足利の山々が望めます。 |
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国道122号線に合流
数分で国道122号線と合流します。
ここからは、国道122号線歩きとなり、
ちょっとクルマが多くなります。 |
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日枝神社、雷電神社、菅原神社
日枝神社、雷電神社といった小さな神社の前を通り過ぎ、
石打の交差点に着きました。
交差点の北側の小高い場所に、
白と朱で彩られ、小さいが立派な菅原神社が交差点を見下ろすようにあります。狛犬もいます。
小さな境内ですが、休憩するのに最適です。
こういった高台にあるタイプの神社は、筆者の好みです。 |
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こぶ観音(明言寺)
交差点を南に10分、
社森の中にこぶ観音として有名な曹洞宗明言寺があります。
元久元年(1204)、天台宗の寺院として創建され、
その後、天正2年、 曹洞宗寺院として再興されました。
仏殿の東に大悲殿があり、
こぶ観音こと千手観世音菩薩が祀られています。
立派な堂宇です。
門前には、土産物屋もあり、参拝のひとも見受けられました。
「こぶ観音」は、観音様のあらたかな霊験を説く「子生〔こぶ〕観音」と「瘤観音」の二つの説話に由来しています。
●子生観音説
平安時代の末、刀剣を業とする夫婦には子供がなく、観音様に祈願したところ男児を授かりました。旅の僧がその子を見て、「この子は観音様の申し子だから、これを守り本尊にして大事に育てるように」と云い、観音像を授けました。子が長じて、源義経の軍に従い、功を立てて「義清」の名を賜わりました。戦に疲れ無常を感じた義清は、刀を捨て、観音像を背負って諸国行脚に出かけました。 そして、この地に至り、「ここは霊地である」と感じて庵を結び、ました。その後、子宝・安産・子育てに霊験ある観音様となりました。
●瘤観音説
江戸時代、武州の殿様の目の上に瘤があり、とれないで困っていることを聞いた石打の行商人がこぶ観音に祈願を奨めました。熱心に祈願したところ、完治し、お礼参りに訪れたといいます。このことから、悪いものはみな「瘤」(不要なもの)として取り除いてくださるという信仰が生まれました。境内のベンチで大休止です。左足にマメができそうですので、靴下を履き替えました。結局は、いつものようにマメを引きずって歩くことになるのですが・・・山歩きでは決してないことなのですが、平地歩きでは、必ずといってよいほど悩まされます。 |




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大根村・中野向地交差点
大根村交差点を過ぎ、
邑楽町のシンボルタワー"未来Mirai"が左前方に見えてきます。
高さ60m。
そして中野向地交差点も通り過ぎます。 |
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長良神社
こぶ観音から、国道に戻って30分。
左に少々歩いたところに長良神社がひっそりと建っています。
石鳥居はあるものの小じんまりとしたブリキ屋根の社です。
先にも登場しましたが、藤原長良を祀った神社です。
藤原長良(平安時代)は、在原業平との恋愛で有名な、清和天皇の女御 高子の父です。彼は、東国平定のためこの地に赴き、常に民衆を哀れみ、病を癒し、貧を救い、人徳を施した、徳の高い方だったということです。 |
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義民地蔵尊
ここからは、館林美術館を目指して歩きます。
多々良に入ると、交差点に八坂神社、
その隣に義民地蔵尊があります。
寛文元年(1661)、徳川綱吉が館林城主のころ、年貢の増収を計るのですが、台之郷、石原、富田などの村で年貢徴収にあたり、役人が「目こぼれ」と称し、年貢米一俵が三斗五升のところを一斗余計に徴収するという事件が起こりました。これに対し、18名の名主が上京し直訴します。直訴により、農民救済は叶いましたが、直訴の首謀者である18名は、日向刑場において処刑されました。
その後、彼らの冥福を祈るため、この義民地蔵が造られ、供養されてきました。この日向の地が刑場跡です。
社殿の中を覗くと、
朱い帽子に朱い法衣を着た地蔵が鎮座しております。
小さな社ですが、隣に社務所もあり、社の軒下には、さまざまな絵柄の絵馬がかかっていました。
僧侶、子を抱く女、数多の目。どうもどこかで見たことあるような・・・
交差点の隅に「右 足利 左 太田小泉 道」の道標。
ここから、館林美術館は、もうすぐ。 |
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館林美術館
5分ほど歩いた交差点を南に曲がります。
15分ほど歩き、
館林美術館の敷地内に入り、
手前のあずまやのある園地のベンチで昼食としました。
眼の前に、晩秋の茶色に変わった芝生、色づき枯れ落ちる手前の木々が見えます。
今日は、美術館で開催されている「色づく彫刻」という企画展の招待券があるので、それを利用して見学です。
あまり彫刻は、興味があるわけでもなく、招待券あるが故・・・
横に長い建物の同館は、恰好はよいのですが、
見るには不都合です。
別館でフランスの彫刻家フランソワン・ポンポンのアトリエが再現されています。
ポンポンは、オルセー美術館所蔵の"白熊"で有名です。
同館にも展示されています。
現在(2012.12月現在)、東京都美術館で開催されている「メトロポイリタン美術館展」でも。
黄色に色づいた木立の中に建つフランスの田舎風の建築である別館は、その晩秋の景色と重なり、まことに美しい異国の風景。
別館から、敷地を抜け、人家に向かって歩き、国道に戻りました。
さあ、ゴールの館林駅は、近い。
実は、足のマメもピークでしたので、多々良駅から、エスケープしようかと考えていました。
しかし、駅まで1km以上戻るのもつらいので、先に進むことにしました。
次回は、エスケープルートもないので、足のマメ対策をしっかりしなくては・・ |







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館林駅
美術館の正面入り口の前を通り過ぎ、
途中、東武伊勢崎線、佐野線のふたつの踏切を渡ります。
津覇車輛館林工場があるために、
特急りょうもう等の車両が並ぶ前を過ぎ、
本日のゴールである、洋館風の館林駅に到着です。
13時30分。
古河往還の太田、館林間を県道2号線、国道122号線と歩きました。
このあたりの神社は、藤原長良にまつわる神社が見られます。
ホント地域により、神社の傾向が異なり、面白い。
また比較的新しい街道なのか、庚申塔、道祖神の類は、なし。
>> 古河往還 館林〜古河へ続く。 |
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