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高津戸峡〜要害山 地図へ |
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渡良瀬川が、足尾の山間部から平野部に流れだす位置にあり、最後の渓谷といえるのが、大間々の高津戸峡です。そして、要害山は、その高津戸峡を造りだしている山です。標高270m。 要害山は、昔、高津戸城という山城でした。平地から80mの高さがあり、西側は、渡良瀬川の断崖の高津戸峡ですので、その名のとおり、まさしく要害の地だったといえます。 高津戸城は、城の尾根を堀で何ヶ所か分断させ、堀と堀の間は平らにし、曲輪(くるわ)としています。 山頂の要害神社のある場所は、もともと本丸があった場所で、その南には二の丸、さらに三の丸と続きます。 城にまつわる話として、悲劇の里見兄弟の話があります。 高津戸城は、平安時代末期の寛治2年(1088年)山田七郎平吉之が築城しました。しかし、室町時代の初めの観応2年(1351年)桐生国綱によって滅ぼされたと伝えられています。 その後、天正5年(1577年)里見勝政、勝安兄弟が、仁田山の赤萩城主だった父の仇を討つため、上杉謙信の支援を受けて高津戸城にこもります。しかし、北条を後ろ盾とする太田金山城の由良氏の怒りを買い、宿願を果たせぬまま、兄弟は壮烈な最期を遂げました。この里見兄弟の物語は、強大な北条、上杉、武田の勢力争いの中で翻弄されていた戦国時代の上野国の悲哀を象徴するできごとでした。 その後、城は由良氏に任され、その後天正18年(1590年)までは阿久沢氏に属していましたが、以後はまったく廃城となりました。 国道122号を桐生から大間々に向かい、町内の「大間々三丁目」の信号を右折すると、右上に「ながめ余興場」があり、その向かいにある駐車場から、渓谷と山を同時に楽しむコースのスタートです。 岡登用水取水口、大間々頭首工、はねたき道了尊を追加(2014.5/25 追加) ながめ余興場、岡登用水堀口再興の碑、取水口案内板 (2014.12/13追加) |
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高津戸橋 |
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遊歩道 |
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ながめ余興場
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ゴリラ岩 |
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あずまや |
ポットホール |
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はねたき橋
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高津戸ダム |
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要害山登山口 |
登山道 |
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要害山神社 |
展望台 |
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あずまや |
下りの道 |
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